映画ドラえもん「のび太の新恐竜」感想!(良かった点と問題点への解釈)
いろんな事情を経て、ついに公開されました、映画ドラえもん「のび太の新恐竜」!
この映画ですが、私は好きです。
でも嫌いだって人も居ます。そりゃそうだ!
いろんな意見が出そうな映画だなというのは感じます。
ということで、私はこういうところが好きだというのと、問題点とされるところはこんな風に解釈しているよというのを記録しておきたいと思います。
違う意見の人とケンカしたいわけじゃないので、あたたか~い目で読んでくださいね。
以下、映画本編および小説版、コミカライズの内容に触れる部分がありますので、ネタバレとなることをご了承ください。
◇

まず「新恐竜」がどんな映画かについて、以下のことは比較的多くの人に共通して感じてもらえるんじゃないかと思います。
・のび太を中心とした物語になっている
・のび太はキューを大切に想っている
・話の構造上、やや無理がある点があり、説明不足な箇所がある(必要かは別として)
・劇場版として安定してレベルの高い作画と音楽である
・のび太役の大原めぐみさんはもちろん、ゲストの方を含めた声の演技が良い
・主題歌「Birthday」が作品にマッチしている
・原作大長編「のび太の恐竜」、映画「のび太の恐竜2006」、さらに「のび太と竜の騎士」等々の要素があるが、同じことをしている映画ではない(できない)
・白亜紀の生物や恐竜について最新の学説を反映させた(ようとした)作品である
あとこれは映画の内容というよりはその結果、場外の話になってしまうのですが、
・好き嫌いが分かれてしまっている作品である
ということが挙げられます。
というのも、
のび太の物語が良かった
VS
話の構造や問題点が許せない
で、どちらがその人の心の中で強くなるかによって感想が分かれてしまうからです。
これはどちらの量が多いという問題ではなくて、それぞれすごく心に響く部分があれば他のことは許せたり、逆にただ一点の嫌いな点で受け付けなくなってしまったりするので、本当にその人の中で何が「残る」のかによると思われます。
好き嫌いはあって当然ですし、良いところもあれば悪いところもある…のは映画として普通ではあるのですが、今年はどうも「この映画は嫌い!」シュパーンスターン!とシャッターを下ろすような感想がネット上にやや多く見受けられる気がしました。
いや、その意見自体は別に構わないのですが、そういう空気に全体が引っ張られてしまうのはなんだか寂しいなあと。
「アレはこういうことじゃないかって解釈したよ」「作中それ分かりにくいッスよねえ」「フィクションにしても飛躍し過ぎだよ」「でもあの演出は好きなんだよね」「のびちゃん可愛いよのびちゃん」「ドラの尻が」「ジルさんあの前髪だとカップ麺食いにくそうじゃね?」「たまご探検隊のAIと指揮系統ってどうなってるんだろ」
という具合に、ワイワイと想像と妄想と批判と疑問と萌えと燃えが入り混じる方が楽しいのではないかな、
「嫌い」でシャットアウトせずにいろんな場面について感想が聞ける方が嬉しいなと考えました。
そんなこんなで、概ね多くの人が納得できそうなことは前述のとおりとしまして。
一方でこの文章を書く「私」個人は、
のび太の話が良かったなあ、苦しい点もあったけど許せる範囲だし、そもそも問題に感じなかったところも多かったよ、
という立ち位置で進めて行きます。
前置き長くてすみません。ここからが本文です!
◇
~私、「のび太の新恐竜」のここが好きです~
まずは私がこの映画で良かったと感じた部分について書いていきます。
・のび太の物語だった!
これは導入から旅立ち、道中の喜びや葛藤、クライマックスの決意や別れに至るまで、ずっとのび太の感情や行動がお話の中心になっていたということです。
ドラえもん映画は「冒険に出かけた先でその世界の騒動に巻き込まれる」という形式が一番多いかと思います。しかしこの形式の場合、ゲストキャラの物語が中心となってしまい、のび太たちの存在が薄くなってしまうこともしばしば。
かと言って、毎回のび太の世界の危機につながるとか、5人のうちの誰かがさらわれるといった展開にもできないので、ゲストキャラとの友情を深め、「彼らを助けることがのび太たちの願いである」という形にすることで、「ドラえもん」の映画であることを成立させています。
その形式に特に不満は無い…のですが、最初から最後までのび太の感情で物語が動いていくような長編もたまに観たくなるところ。
しかし過去作でもそこまで彼が引っ張っていく話となると、「恐竜」と「巨人伝」くらいかもしれません。あと「魔界」と「新日本誕生」あたりを加えるかどうか?
その中で今回の「新恐竜」も、「恐竜」とは違う形でのび太の気持ちが物語を動かしていく作品になっています。
「これはのび太の人間性や感情がしっかり描かれていなければ、必然的に映画そのものが無茶苦茶になってしまう……!」と期待と不安がないまぜになった状態で上映に臨みましたが、個人的には杞憂に終わりました。
ああ、のび太がキューとミューを愛する気持ちが伝わってくる!
自分に重ねてしまう気持ちも分かる。自信を持ってほしい気持ちも分かる。どうか幸せに生きてほしいという願いが胸を打つ!!
そのために悩みながらも、まっすぐに行動できるのび太が本当にかっこいいなと感じられました。
野比のび太はどんな人間か? どんな子であってほしいか? そもそもあなたはのび太くんが好きか?
等々、人によって考える「のび太像」は違いますし、そのイメージ通りの姿を押し付けるのは正しくないとは承知しています。
しかし、それでも私の見たかった「のび太」がそこに居て、活躍していることが嬉しかったですし、ハラハラドキドキと、いつしか彼になりきったように感情移入していました。
クライマックスについても賛否ありますが、私はのび太なら「救いたい」と願うと信じているので、あの展開にも納得がいっています。
・のび太の願いが未来へとつながった!
のび太が恐竜たちを救おうとする行動が、次の時代・次の段階につながったというのは、ドラマ性重視であり、少々出来すぎた展開ではあるでしょう。それでも、「キューが幸せに生きていけるように」と願うのび太に移入して鑑賞していた自分としては本当に嬉しかったのです。
”のび太の行動を含めて実は歴史の一部だった”という真相はわりとウルトラCではありますし、仮に整合性を良しとしても倫理的にどうなのかという問題は生じます。
でも、今作の彼の気持ちもとても良くわかるんですよ。
最終的にT・Pに取り押さえられてしまうことになるとしても、今作ののび太は「のび太」である限り、きっと最後までキューたちのために何かできることはないかと、あがき続けると思います。
T・Pの言い分もわかる、でも、できるなら恐竜たちを救いたい。キューとミューは幸せに生き抜いてほしい。
大いなるフィクションなのは理解していますが、個人的にはそういう『理想とかまっすぐな願いが叶えられる物語』があっても良い。のび太の願いが希望に繋がって嬉しい、純粋に良かった、好きだと思える作品でした。
・他の4人がのび太の味方でいてくれた!
ドラは子守りロボットとしてのび太を導く存在ではある……けれど、彼には彼の感情があるし、親友としてのび太の想いを一番理解している存在でもある。
現代に恐竜の卵を孵して良いのかということや、同じ種族と一緒に居ればキューは飛べるようになるかもしれない(のび太と一緒に居る事がキューにとって良いことなのか?)等々、要所要所でのび太に言葉をかけていましたが、それはのび太のやることの否定ではなく、ましてやお説教でもなく、彼の気持ちを理解し、自分で考えることを促すものでした。
ドラはのび太がちゃんと考えて判断のできる人間だと信じているんですよね。
そのうえで彼の下した決断には惜しみなく力を貸してくれる……この信頼関係もまたグッとくるものでした。
ジャイアン、スネ夫に関しては今作は「のび太の恐竜」の時ほどのび太と対立している状況ではなかったため、早々に彼を認め、その願いに理解を示した上で、頼れる仲間として存在感を発揮してくれました。
ジャイアンやスネ夫なりに恐竜の強さや他の種族との調和について思うところがあった、という描写は小説版にしかなく、映画では省略されていたのは残念でしたが、削りながらも話の都合で動かされているという感じはしなかったです。
しずかについては主にあの川原のシーンがくすぐったい感じもしましたが、「上手くできない気持ちをよく分かってるからこそキューの苦しみにも寄り添ってあげられるはずだ」とのび太の背中を押す重要な役割を果たしていたと思います。
のび太にとってドラやしずかが信じてくれているように、キューには自分がついて信じてあげたいと心を固めるうえでも仲間たちの存在は大きいものでした。
そしてT・Pに捕らえられそうになったのび太を4人が守るシーンがアツい……!
こうした演出も苦手な人は苦手なのかもしれませんが、そうやって"無条件で味方になってくれる4人"を観れたことが嬉しいし、できればあの輪に加わりたいとさえ願ってしまいました。
・恐竜は悲しい存在ではなかった、キューとミューに出会えて良かった!
私は正直、恐竜が滅んだことで哺乳類・人類の繁栄があるということに、それが歴史だと納得しつつも、どこかやり切れない無常感のようなものを抱いていました。しかし今作を経たことで、それがもっと前向きで希望のあるものとして受け入れられるようになった気がします。
恐竜は絶滅して「終わった」おかげで今の人類が居るんじゃなくて、彼らはその時代を精一杯生きていたし、その生命が今に受け継がれているということ。のび太にとっても、映画を観ていた自分にとっても、キューとミューは生まれてきて良かったし、出会えてよかった。今回ふたりが「歴史に関わっている」というSF的ギミックはあったけれども、そこは本質ではないのだろうと感じています。
キューがのび太を助けたくて飛べるようになったり、のび太が朝ちゃんと自分で起きられるようになったり、約束を果たして逆上がりが出来るようになって、"世界がちょっと広がる"というその瞬間。
そういうことを何度も何億年も、歴史上の小さな誰かが、のび太が、キューが、「私」が繰り返して続けて生きてきて、その先に未来が広がるんだということが心に温かく感じられました。
このあたり、Mr.Childrenの主題歌「Birthday」の歌詞、そして光の玉のような形で生命が受け継がれていくことを表現したエンディング映像もすごく良かったと思います。
"のび太"が走り続けたその先でドラえもんに会えるという最後の演出は、何度見ても胸がいっぱいになりました……!
・誰かのために「他にできること」を考えることで、未来が開けるという展開が嬉しかった
これは私がそういう話が好きなだけなのですが、それでもぜひ語らせてください。
まずジルさんが「人間は他人を思いやる心を進化させたのかもしれない」と、ややポエミーなことを言っていたのを独自に補足しますと、あれは「ただ一つの自分にとって有利な道」ではなくて、自分以外の存在のために「他にできることは無いか?」と探す気持ち、模索する知恵、そういうことを「思いやり」として発達させてきたのだと言いたかったのではないかと考えています。
自分だけが良ければ良いのではなくて、自分以外の存在も幸せになってほしいと願い、そのために行動できるということ。
それはまさに、のび太たちが体現してみせたことです。
「宝島」しかり、「新日本誕生」や「雲の王国」等、不穏な未来が提示される作品もいくつかありましたが、そのルートを座して受け入れるのではなく、皆の幸せのために違う道を目指していくことに希望があると、「ドラえもん」という作品にはそういう未来観があると私は考えているので、今回のこの展開にはほぼ絶賛に近いものがあります。
そもそもドラえもんとはどういう存在なのか、
親が居ないあいだ子どもが無事なら良いというだけの「道具」であったなら、あの世界の子守りロボットはドラえもんのように喜怒哀楽+アルファの豊かすぎる感情を持つ存在として作られていないことでしょう。
世話をする子が幸せになれるように、一緒にいろんな出来事を経験しながら楽しく過ごせる存在として作られているということに、未来でドラえもんを生み出した人類は「思いやり」を持ち続けているのだと信じることができます。
今回は本来既に決まっているはずの過去について、『歴史にはまだ分かっていない部分が多い(ミッシングリンク)』というワードで潜り込んでいますし、かなり強引な手法だというのは承知していますが……それでも「キューたちのために少しでもできることを!」とのび太が動いたことが未来につながった、希望となったことは本当に嬉しく、ワクワクする展開でした。
ぶっちゃけ”浪漫要素”ではある、だがそういうのも良いじゃないか!?
毎年いろんなタイプのドラ映画が公開される中で、これが今年の作品に対して私のなかで残ったものですし、細かいアラはあっても好きだなと思える理由でした。
◇
~問題点はこう解釈したよ、気になるか気にならないかはその人次第!?~
ここからは純粋な「感想」とは違うかもしれませんが、映画を観た人から「問題」とされてる点について、自分はこう解釈したよーというのを述べていきたいと思います。それぞれへの反論のようになっていますが、あくまで「こう考えた人間もいるよ」ということなので、どうか怒らないでくださいね。
・キューが飛べるようになることを強要し、それを良しとする根性論はどうなのか?
これに関してはキューは飛べるようになりたいと願っていたし、のび太はキューが飛べるようになると信じていた、そして一緒に頑張ると約束した、という流れなので私は特に強要とか根性主義とは感じませんでした。
まず一番の前提としてあるのが、
「のび太はキューに幸せに生きてほしかった」ということ。
だからたった二匹のペットとして現代に飼うことではなく、同じ種族が生きる時代と場所に帰そうとしたわけです。
しかしあの島の環境で暮らし、群れに受け入れてもらうためには、飛べなくてはならないのは客観的「事実」。キューが「幸せに生きる」ためにはあの場所に置いてくれば良いという訳にはいかないでしょう。
鳥かごのように自分の手の行き届く環境では無い以上、「できなくても良いよ」とは言えないはずです。
もちろんフィクションとして、走るとか泳ぐとか、「飛ぶ」以外のことで生きていけるようになった!という夢のある展開にすることも可能ではあったかもしれませんが、今回のこの映画ではのび太とキュー、"ふたりの気持ち"に基づいて「飛べるようになりたい」「飛べるようになると信じる」「ふたりで頑張る」という物語に行きついたのではないかと考えています。
実はこのあたりは小説版ではもう少し細かく描写していて、のび太はキューが自分に重なって感じられるからこそ、できない孤独感や怖さもわかるのに、つい苛立ちをぶつけてしまったことを反省していました。
そして「みんなと同じになりたいんじゃなくて、できなかったことをできるようになりたいんだ」と気がついて、キューを応援するとともに、自分も逆上がりができるようになるよという約束をしています。
一方的に「飛べることが良い」という価値観を押し付けていた訳ではなくて、できないことをできるようになって自信を持ってほしい気持ち、自分が味方になって応援するということ、そして一緒に挑戦をするということを合わせて示していて、キューとのび太、ふたりの気持ちは通じ合っていたということが、より分かりやすくなっていました。
(※小説とアニメの媒体の違いや、どの程度観客・読者に委ねるかという判断の違いでもあるので、どちらが良い悪いとはしません)
もちろん「"頑張ってできるようになれ!"みたいな根性的な話は嫌いだ~!」というそれぞれの好みや主義というのはあると思うので、そのあたりが合わない人も出るのは仕方ないことかと思います。
とりあえず私個人は、作中のふたりは変わることを望んだ上での挑戦だったから、問題とは思わずに受け取ったよーということです。
補足として、キュー自身が飛べるようになることを望んでいたのは、離れていたのび太が戻ってきたときにひとりで練習を続けていたことからもわかりますし、スパルタ特訓のような描写も、そもそも原作てんコミ1巻のウマタケのお話で「人にできてきみにできないことなんてあるか」とドラがのび太に竹馬をやらせていたりするので、そんなに気にすることでもないんじゃないかなぁと考えています。
・のび太は頑張ることをそこまで肯定するような性格だったか?
これも前の項目に関連した話ですが、「のび太もたまには考える」「あの日あの時あのダルマ」等々のエピソードや、F先生へのインタビューなどからも、彼は「出来ないよりは出来た方が良いと知っている」「一歩でも半歩でも前進したいという気持ちは持ち続けている」キャラクターだと思っているので、特に違和感は感じませんでした。
もちろん「映画(大長編)だとカッコよくなる」というメタ要素も加味されますが、普段の怠け心や劣等感の下には確かに向上心や前に進む強さを持ち合わせていると信じています。
今作はそんな彼の良さがたくさん見れたので、のび太好きとしても嬉しい作品でした。
・今井監督や脚本の川村さんはインタビューで「多様性がテーマ」と語っているが、結局飛べることに帰着する話になっていて矛盾していないか?
これは捉え方の違いではないかな?と思っています。
まず本人たちの目指すところがみんなと同じになることではなくて「できないことができるようになりたい」のだというのは前項で述べた通り。
それでも結局多数派に迎合しているのではないか?という疑問についてですが、そもそもキューはミューたち他の仲間と「同じ」にはなってない…ですよね。
滑空する飛び方は出来ていないし、体が大きくなったりもしていません。
元の身体のままで同様(か、それ以上)の結果が出せる羽ばたきする飛び方を身に付け、それによってあの島の環境で生きていける能力と、あの群れで認められる能力を得られたということなのでしょう。
極端な話、群れのリーダーがまだ「お前の羽ばたきする飛び方は無様だから仲間には入れん!」とパンチをかましていたら、キューはあの中で生きていくことはできなかったかもしれません。
このあたり、腕をバタバタと動かして飛翔するということと、グライダーのように滑空することで、どちらも「飛べる」という事象が同じなので分かりにくくなっているんじゃないかなと考えました。
前述のとおり早く走れるとか泳ぐとか、もっと明らかに違う事象で生き延びていく話にするという手もあったかもしれませんが、今回の映画は恐竜は鳥類として受け継がれていくという学説、そして仲間の中で受け入れられて幸せに生きてほしいというのび太の願いに沿っているため、ああいった展開になったのでしょう。
監督たちの意図した「多様性」については、雑誌「ニュータイプ」2020年4月号で「『人と人との違いをプラスに考えよう』ということを物語に組み込んだ」と今井監督がインタビューに答えているあたりも、あわせて参考になるかと思います。(ニュータイプの電子版が無いのが残念!!)
ただしそういった意図とは別に、「生物多様性という用語上の"多様性"と、人間社会で言うような"多様性"を同じように使っていてワケわからないよ!ゴッチャにするな~!」という意見については、確かにその通りなのですが……
のび太にとってキューが自分と重なる存在として描かれている文脈からして、人間と同じような意味合いで願望や希望として使われているのは読み取れますし、そこらへんは言葉に厳格にするよりも、伝えたかった内容を感じ取ることで私は許容しています。
また「そもそも動物を人間と同じ感情で擬人化するな」という話にまでなってしまうと、それはOKな人とそうでない人がいるのでごめんなさい、と言うしかないかな…と考えます。
・一個体の技能獲得は進化じゃないよ?(遺伝しないよ)
これに関してはひとえにジルさんが悪いというか…… 兄ちゃん、気持ちはわかるがテンション上げ過ぎだポエム自重しろ落ち着け落ち着け、と言いたい気持ちです。
あの人がかなりユカイな人なので話をややこしくしているのですが、キューが飛べるようになったことを「進化の瞬間だ!」と言ってるのはあくまでその第一歩、今後あの種族に起こっていく変化の「象徴的な事象」として描いているのだろうなと解釈しています。
ジルは興奮してちょっと(だいぶ?)仰々しく語っているけど、キュー一匹が飛べるようになったからと言って「はい!今飛べた!今進化した!」みたいな感じではないのは十分理解できました。
また、作中で登場しなかっただけで、生まれつき特に小柄だったりパタパタと羽ばたくような動作をする個体はキュー以外にも居たのかもしれません。
ただ、「鳥類の祖先は既に(他に)存在していたことにも触れていないし、子どもが進化というものを誤解する可能性がある」と言われると……その可能性は否定できないので確かに難点ではあるのだと思います。
原作の「のび太の恐竜」で首長竜を恐竜として扱っていることなどと同様に、分かりにくい点については大人がアドバイスできれば良いのではないでしょうか。
・進化は努力によるものじゃないし、進化は進歩じゃないよ?
この作品ではキューが飛べるようになったことについて、ドラマ性を出すために「ぴったりこのタイミングで」、「のび太を助けようと頑張ったことによって」、「未来が切り開かれた」と、描写しており、象徴的な表現であることを踏まえても、指摘通りで学問的には適切ではありません。
こういうところが気になって楽しめない、受け入れられないという人が出てしまうこと自体は仕方がないかなと思えます。
けれども個人的には"エモさ"の演出だと分かっていても、キューが生魚を食べられるようになっていたりとか、一人でも練習していたこととか、転んでも転んでも…ダルマのようにもう一度起き上がってのび太を助けに行こうとした場面など、もう一人ののび太としてふたりが重なって見え、力を合わせてチョークを引く姿に胸が熱くなりました。変わろうとすること、変われたことで「新しい世界が広がる」というメッセージにも心打たれます。
結局はじめの方でも述べたように、正しくないことが許せない気持ちと、ドラマ性の方に惹かれる気持ち、そのどちらがその人の中で強いかという話に行き着いてしまうんだろうなあと考えます。もちろん、誰もが疑問や引っかかりを持たず、かつ盛り上がるような映画であれば一番なのですが……
とりあえず自分としては、強引であることを承知した上でもやっぱり心動かされる作品だったなという評価です。
・小さなきっかけが歴史を大きく変えうるというSFネタと、科学的に進化がどう起こるかという話のかみ合わせの悪さ
これはこの映画に関しての議論を複雑にしている原因と思われる点で、キューが飛べるようになるのがなぜあのように劇的な演出になっていたか、もう一つの理由として考えられるものです。
今作でジルが使っていた「チェックカード」は、元々は同じ藤子・F・不二雄先生による作品「T・Pぼん」(タイムパトロールぼん)に登場するアイテムで、その引用の仕方からもあの作品の「些細な事象から歴史が大きく変わることがある」という設定・概念が同じように適用されているのだろうと思われます。
極端な例だと「小石一個が回りまわって第三次世界大戦を阻止する」というアレですね。
それ自体は問題ではなくて、むしろ個人のちょっとした行動が世界を変えるというギミックにものすごくワクワクさせられるのですが、本作のキューやのび太にあてはめると、SF的なネタと科学的な事実との間に混線が発生しやすくなっていると感じました。
つまり、「崖や滝、上昇気流など極端な環境を持つ島にたどり着いた小型の羽毛恐竜」という、変化の起こりやすい条件がちゃんと描かれていた一方で、「のび太とキューが出会って変われたことで歴史が大きく動いたのだ」というSFロマンの要素をエモーショナルに演出してしまったので、科学的に無理があるフィクションの部分がかえって目立ってしまったのではないかなということです。のび太が落ちそうになる「あの土壇場でそんなにうまくいくか!?」という展開そのものについても同様ですね。
「進化」の扱いについて釈然とせず引っかかった人が多かったのは、このためではないでしょうか。
こういうきわどいところを攻めていかないで、もうちょっと自然な範囲でロマン要素が出せれば一番良かったのかもしれません……が、
私個人としては「小さな勇気や願いで大きく世界が変わる」というドラマがすごく好きなので、構成上の問題はあってもこれはこれで良かったかな…と受け止めています。
・のび太がキューを救おうとして世界を滅ぼしかけたことは倫理的にどうなの?
これも難しい問題なのですが、あの状況に居たのが自分だったとしても、「ごめんね、キュー、ミュー、他の恐竜のみんな。僕たちは何もできないので帰るよ」とは言えないよなあ……という感情的な問題が先走ります。
そもそもあの映画は「歴史を変えて人類が滅んだ」わけじゃないんですよね。
実際に「21世紀に戻ったら世界が崩壊していました」エンドだったら、私もさすがに「ちょ、待てよ」となりますが。
もし「キューとのび太が歴史に関わる」というトリックじゃなかったとしたら、のび太たちは最終的にはT・Pに取り押さえられて強制的に元の時代に送還だったと思います。その瞬間まで全力で抵抗しまくった上で。のび太は何日か…ひょっとしたら半年くらい学校にも行けないくらい塞ぎ込むかもしれませんが。
ここで誤解しないで頂きたいのですが「そんな悲しい映画観たくないでしょ? だから我慢しろ」という話ではありません。
少なくとも「この映画ののび太」は、人類のその後とかそういうのを考えられないくらいキューや恐竜たちがみんな死んでしまうことに抗いたかった、そういう人物として描かれているということです。
だから、観客から見て、倫理観が欠けてようが、エゴの塊だろうが、なんなら根性論者でも良いのです。今作ののび太はそういう信念のもとに動く人物なのですから。
その上で、「自分は今回ののび太が好きじゃない」ならそれはそれで良いかと思います。
とりあえず「この映画ののび太はそういう行動をとる人物である」ということと、作品としての完成度とかスタンスはまた別であることを認識する必要はあるんじゃないかなと考えました。
そうしましたら、あとはやっぱり個々人の好き嫌いのお話。
私は自分とのび太の考えが近かったですし、自分が(勝手に)イメージするのび太の行動に合致していたので、胸が詰まるような展開ではありましたが「そうなるよね…」と納得しています。
さらに、キューたちが生き延びることが歴史上必要だったという種明かしがあり、しかも「のび太がなにか他にできることを諦めなかったから開けた道だ」というメッセージもあったので、大いなるフィクションと承知していても「良かったぁ」と涙ぐみそうになってしまいました。
キューを想う気持ちや強さ優しさなど、のび太の人物像が「この映画の中」ではブレずに一貫していたのも良かったと思います。
・エモに振ったおかげでタイムパラドックスがガバガバじゃない?
これに関しては確かにガバっていますし苦しいところも多いですし、コジツケールです。
でも、苦しくてもなんとか「つじつまを合わせよう」としてくれたことは評価しています。その私の評価とか許容ラインもガバガバだという自覚はありますが……
それはさておき、ドラマ性を重視するということは「そういう話ありき」で逆算されているので、やはり展開が強引な部分が出てきてしまうのは否めません。しかしこの作品はできるだけフォローする要素や「こういうことかなあ」と妄想できる材料も用意されていると感じました。
例えば「のび太たちの行動は実は歴史に折り込み済みなのだ!」という真相については、冒頭で恐竜博士が「歴史上存在するはずなのにまだ見つかっていない"ミッシングリンク"がある」と語っている部分が伏線になっています。
そのセリフで済ますのは確かにちょっと強引なのですが、恐竜については「見つかっていないしまだよく分かっていないことも多い」いう現実の研究状況が、今回の物語にある種の"嘘"を潜り込ませる要素として機能していました。
また、「ジオラマセットが恐竜が生き残る場所になる」という展開についても、ジュラ紀で落としてくるという前段階のほか、「未来の動物育成セットだから環境調節機能がある」「のび太達が遊具を設置した特殊な環境だから飛行恐竜が適応した」等々一応のつじつま合わせとなる説明が用意されています。
「あんな場所が白亜紀にあって、その後の歴史に悪影響無いの?」という疑問についても、T・Pが一部始終を見ていたということで、大陸との距離の微調整とか、オーパーツにならないような最終的な処分をしたんじゃないかなあ……と妄想してみました。ジルさんみたいな研究職のT・Pも居るという設定ですし。
もちろん、のび太の願いとは裏腹に一世代限りで滅んでしまった種族も多いのだろうなと思われます。
そのあたりは、「おいおい、妄想かよ?」という話なんですが、ハッキリ説明しないからこそ色々想像して楽しめるという気もするのですよね。あとはぶっちゃけ「矛盾や論理破綻を避けるため」という、一種の逃げもあると思います。
こういうところは「宝島」にも多々あったので、「やっぱりこの脚本ズルいな~苦手だ」となる人が出てしまうのも分かるのですが(ごめんなさい)、個人的には「多少苦しくても卑怯でも一応つじつま合わせを考えてくれる、その姿勢は嫌いじゃないぜ!」と思っています。
他のドラ映画には「アレの正体とかあの演出とか意味ありげだったのに削っていて、なんか宙に浮いてるなあ……」みたいなものを感じることがあるので、「それっぽい理由」を仕立ててくれることには好感を持ちました。
もちろん私がモヤモヤしたというそちらの作品が好きな人も当然いらっしゃるので、逆から見れば同じこと、やっぱり映画の感想というのは「好きな人も居れば嫌いな人も居る」に行き着くのだと考えます。
「私これ嫌い!みんなも嫌って当然!」みたいなギスギスした雰囲気はいやーよ?
なお余談ですが、小説版にはジオラマが島ほどの巨大サイズになっていたことについて「本体サイズ調整機能の調子が悪い」という伏線が出てくるのですが、それだと時間経過で小さくなったり壊れる可能性もあるため、映画版では削られたものと思われます(推測)。こういうところも色々取捨選択して作られているんだなと感じました。
・"ピー助"について
アリかナシか、許せるか許せないか、ある意味でもっとも物議を醸す点。
以下、許せるしアリだという立場で、付随する疑問について妄想の翼をはためかせて考えてみました。
【「のび太の恐竜」のその後の話なの?パラレルワールドなの?】
のび太の記憶がどうなっているかを理由づけられれば、どちらに受け取ることも可能ではないでしょうか。そもそも毎年毎年大長編(映画)でずっと小学生のまま大冒険していること自体、時空がねじれているので……
仮にパラレルワールドの出来事だったとしても、それが「無かったこと」ではなくのび太の心とか魂に残るものであるというのは、「魔界大冒険」を思い出せば納得がいきます。
【のび太たちの記憶は有るのか無いのか】
育児シーンなどを見る限りとりあえずは「無い」寄りの表現でしたが、こじつけや妄想も一応できるかなと思います。
映画で観れる部分以外の幕間にもキャラクターたちは生活をしているはずですので、そこに"彼"についての会話もあったのかも……? 溺れかけたときののび太の様子も、過去を思い出している風でもあり、別世界の記憶が混ざったようでもあり、これまたうまい逃げ方というか、妄想の余地を残してるなあと感じます。
フォゲッター技術の応用など、T・Pに記憶を消されてるという説も面白いでしょうか? 未来にはメモリーディスクのような危ない道具もあったりするので、やってやれないことはないかもしれません。
なお、むぎわら先生によるコミック版では明確に「ピー助との物語のその後」として描かれています。
【あの個体は"本人"か?】
前述の理由のほかに、時代が合わない気もするので個人的には別人寄りに捉えていますが、やはり完全に否定することはできないかと思います。
ほら、「新日本誕生」でククルが運ばれてきた時空乱流とかあったですし? そのあたりでひとつ前日譚を創作してはいかがでしょうか(丸投げ)。
【何で助けてくれたの?】
のび太とキューがその後の歴史に関わるという設定から行くと、流れを外れそうになった時に元に戻す力が備わってるとする「歴史の復元力」によって、近くに居た首長竜が助けてくれた……とするとSFっぽくまとまるでしょうか。
もちろん、"本人"だから助けてくれたというのも嬉しいですし、実は子孫でご先祖の遺伝子に導かれた行動だったとか、一般通過竜のただの気まぐれだったとか、のびちゃんの精神感応力(最初にウミユリの化石に触ったときや開拓史でロップルくんの夢をみた時のアレ)に導かれてやってきたなんて説も面白いかもしれません。
だいぶ開き直って参りましたがそんな感じで、
長く観ているファンに対するサービスというメタ要素もありつつ、彼の存在については科学的な整合性よりも、ロマンある解釈(妄想)で認めたいなあと思っています。
・ミューって必要だった? 双子である意味は?
キューと比較のためのキャラになっていただけだという意見も見かけたのですが、それがまさに意味でありますし、何よりミュー可愛いだろ!ミュー可愛いだろ!ミュー可愛いだろ!
たまご探検隊を食べちゃダメだと言われて名残惜しそうにしている表情がたまらないですし、キューのために飛び掛かろうとする男前(?)なところとか、のび太の枕を引っ張っているところとか、とにかく仕草がすべて愛らしくて最高です。
・あの巨大な翼竜は何だったの?
これに関してはほとんど説明もなく確かに謎のままだったので、妄想で補うしかありません。
あいつはのび太やミューとは別のベクトルで、”キューと対になる存在”だったんじゃないかなあと考えています。
小柄で好き嫌いが多くて滑空が出来ない変な羽毛恐竜(キュー)に対して、巨大であたりの動物を食らいつくす規格外な翼竜。もしかしたら逃げていたプテラノドンの変異体の可能性もあるかもしれませんが、少なくとも仲間はいないし入れないのでしょう……
ジャイアンたちが目撃した海岸近くの骨だらけの一帯があいつによるものだとすれば、その体を維持するために必要な食料も膨大なはずです。周囲の生態系バランスを大きく乱す存在でもあるため、戦いの強さとは別に、長く生き延びていくことは不可能だったと思われます。
そもそもなんであんな馬鹿でっかい翼竜が居るのか?ということについても、前述のように「まだ見つかっていない存在(ミッシングリンク)」だと言ってしまえば、この作中では(フィクションとして)存在させることが可能なのです。
つまり、要素を一つ一つ改めて考えると、キューと対照的になっているのですよね。
これはもちろん私の妄想なのですが、わりといい線いってるんじゃないかなとうぬぼれています。
なので、翼竜を絶対的な悪や倒すべき存在として描かなかったのは良かったのですが、エンディング後にどうなったかが気になるところ……
スモールライトだといずれ戻っちゃうよなあ。これもT・Pがなんとかしたのかな?
キューと対になる存在であれば、彼にも救いが欲しかったなと想う反面、「救われない」のもまたキューのもう一つの姿、つまりのび太に出会えずミューも居なかった場合の"キュー"だと考えることもできると気が付いてしまいました。
本当に構成が見事だなとうならされるばかりですが、それはそれとしてかわいそうでもあるので、ぜひどなたかもうちょっと優しい"妄想"をしてあげてください(丸投げ2)。
・いなごの缶詰
ゴメンなさい、これは本当にわからなかった。
てんコミ2巻の「恐竜ハンター」の「大和煮」の缶詰のパロディなのはわかるのですが……
「『飛べる』けど美味しく人間に食べられてしまう生物」というメタファー?
実はドラえもんは「21世紀でいなごの缶詰を仕入れて22世紀で高く売る転売ヤー」だったとか?(オイ)
今井監督とか川村さんの出身地が長野という訳でもないようですし……
真相を直撃するインタビューぷりーず!
もしくは、コレだ!となるオモシロ妄想解釈も待ってます(丸投げ3)。
◇
と、いうことで長かったこの文章もついに締めに入りますよ。
まとめとしては今回の「新恐竜」はのび太の物語です。
彼の願い、彼の想いによって話が動いていきます。
強い想いは物語に大きな勢いと感動をもたらしますが、同時に一方的なエゴとして受け入れられないものになる可能性があります。
まずこれが好きか嫌いかどうか。
そして恐竜を扱いながら、「のび太の恐竜」(2006含む)とは違う展開を前提としていること、さらに宇宙や異世界ではなく現実の地球を舞台としているため、時系列や史実に従った作品にする必要があります。その一方で娯楽映画としてのドラマチックな展開も求められるため、両者をすり合わせるためにやや強引な展開があったり、科学的には正確ではないところが生じています。これが許せるか(気にならないか)許せないかがもうひとつの軸になるでしょうか。
何度も述べてきましたが、それらの組み合わせや程度で、この映画が好きだという気持ちが残るか、嫌いだ・許せないという気持ちが残るかで感想が分かれてくるのだと思います。
今年は少々極端に「とにかく全部ダメだ!」となってしまった人も居ましたが、本来「あれは大好きだけどコレは納得いかない」とか「アレは苦手だけどここはめっちゃ燃えた!」など、場面ごとに感想が分かれてくるものではないでしょうか……
なので「なんか評判が悪そうだから観るのはやめとく」という人が出てしまっていることが、個人的にはものすごく寂しいです。
もちろん観るのも観ないのも自由!なのですが、評判を含めて少しでも気になる部分があればぜひご覧いただけたら嬉しいなあと。賛否や好き嫌いが出てしまっている点についてもご自身の心で感じて頂ければと願います。(感染症予防の観点から無理しない範囲で!)
正直なところ、今作についてはあまりに多く「嫌い」だという意見を見かけるので自分の感性が間違っているのではないかと自信をなくした時期もありました。しかしこの文章で綴ってきたように、ひとつひとつの要素について自分なりに考えた結果、気になる部分より心動かされた気持ちの方が大きかったという結論に至りました。
と同時に、嫌いになったり引っかかる人も出そうな要素が多い作品だということもよく理解出来ます。
なので、イマイチだと感じる方がいらっしゃるのもわかるのですが、皆がその意見だという前提になって、この作品が好きだと言いにくい雰囲気になっているのもなんだか違うなあと感じ、改めて「好きだし気にならなかった」という立場からも感想を公開したいと考えた次第です。
いや、そんなの気にするなよアンタの感想だろという話なのですが……うう、なんだか今年は異様に肩身が狭いんだ!
この作品が良かったという人とダメだという人でギスギスしている状況も辛いので、両方の立場があると認めたうえで、もうちょっと具体的な感想が出しやすくなればなあと願います。作画や音楽の話やそれぞれの燃え(萌え)ポイント、妄想劇場や道具考察なんかも聞きたいぞ!
タケコプターがブォンブォンしてた演出とかも好きなんですよ~
あとは、とにかく毎年公開してくれるドラえもん映画を楽しみたいよね!ということです。
その年によって、文句を言ったり感動したり人それぞれ色々あるけれど、それを繰り返すのもまたドラえもんファンの恒例行事。
すごくお気に入りのキャラクターができたり、いろいろ考察したり、イラストを見たり感想を読んだり、コミカライズや小説と比べてみたり、コラボ商品を集めたり記念イベントに出かけたり、何回か劇場に通って新しいことに気がつくのも、あれこれあれこれ、毎回楽しくて幸せだし今年も「出来る範囲」で楽しむ!
改めてこういう想いが毎年できる作品というのは、何てすごいのだろうと感じます。
製作スタッフの皆さんはもちろん、スポンサー各社、タイアップ商品やイベント等々、この映画の公開に携わった全ての人に感謝を伝えたいです。
こういう時勢だから本当に本当に嬉しい。
そしていろいろ難しいところもありますが、子どもたちが何らかの形で楽しんでくれれば良いなあ、と願ってやみません。
来年の公開時期はまだどうなるか分かりませんが、次の映画も楽しみです。
あの音楽とあの惑星、やっぱアレですかね!?
今作では太古の昔から現在、そして未来へ受け継がれている生命が描かれていたように、
どうか、いろんなものが次へ、未来へ、より良い方向へつながっていけばよいなと考えます。
ミューとかたまご探検隊とか恐竜博士とかのびちゃんのカッコよさとか、もうちょっと具体的に語りたい気持ちもあったのですが、いつか機会があればということで、ここで締めといたします。
ここまで凄まじい長文でしたがお読み頂きありがとうございました。
この映画ですが、私は好きです。
でも嫌いだって人も居ます。そりゃそうだ!
いろんな意見が出そうな映画だなというのは感じます。
ということで、私はこういうところが好きだというのと、問題点とされるところはこんな風に解釈しているよというのを記録しておきたいと思います。
違う意見の人とケンカしたいわけじゃないので、あたたか~い目で読んでくださいね。
以下、映画本編および小説版、コミカライズの内容に触れる部分がありますので、ネタバレとなることをご了承ください。
◇
まず「新恐竜」がどんな映画かについて、以下のことは比較的多くの人に共通して感じてもらえるんじゃないかと思います。
・のび太を中心とした物語になっている
・のび太はキューを大切に想っている
・話の構造上、やや無理がある点があり、説明不足な箇所がある(必要かは別として)
・劇場版として安定してレベルの高い作画と音楽である
・のび太役の大原めぐみさんはもちろん、ゲストの方を含めた声の演技が良い
・主題歌「Birthday」が作品にマッチしている
・原作大長編「のび太の恐竜」、映画「のび太の恐竜2006」、さらに「のび太と竜の騎士」等々の要素があるが、同じことをしている映画ではない(できない)
・白亜紀の生物や恐竜について最新の学説を反映させた(ようとした)作品である
あとこれは映画の内容というよりはその結果、場外の話になってしまうのですが、
・好き嫌いが分かれてしまっている作品である
ということが挙げられます。
というのも、
のび太の物語が良かった
VS
話の構造や問題点が許せない
で、どちらがその人の心の中で強くなるかによって感想が分かれてしまうからです。
これはどちらの量が多いという問題ではなくて、それぞれすごく心に響く部分があれば他のことは許せたり、逆にただ一点の嫌いな点で受け付けなくなってしまったりするので、本当にその人の中で何が「残る」のかによると思われます。
好き嫌いはあって当然ですし、良いところもあれば悪いところもある…のは映画として普通ではあるのですが、今年はどうも「この映画は嫌い!」シュパーンスターン!とシャッターを下ろすような感想がネット上にやや多く見受けられる気がしました。
いや、その意見自体は別に構わないのですが、そういう空気に全体が引っ張られてしまうのはなんだか寂しいなあと。
「アレはこういうことじゃないかって解釈したよ」「作中それ分かりにくいッスよねえ」「フィクションにしても飛躍し過ぎだよ」「でもあの演出は好きなんだよね」「のびちゃん可愛いよのびちゃん」「ドラの尻が」「ジルさんあの前髪だとカップ麺食いにくそうじゃね?」「たまご探検隊のAIと指揮系統ってどうなってるんだろ」
という具合に、ワイワイと想像と妄想と批判と疑問と萌えと燃えが入り混じる方が楽しいのではないかな、
「嫌い」でシャットアウトせずにいろんな場面について感想が聞ける方が嬉しいなと考えました。
そんなこんなで、概ね多くの人が納得できそうなことは前述のとおりとしまして。
一方でこの文章を書く「私」個人は、
のび太の話が良かったなあ、苦しい点もあったけど許せる範囲だし、そもそも問題に感じなかったところも多かったよ、
という立ち位置で進めて行きます。
前置き長くてすみません。ここからが本文です!
◇
~私、「のび太の新恐竜」のここが好きです~
まずは私がこの映画で良かったと感じた部分について書いていきます。
・のび太の物語だった!
これは導入から旅立ち、道中の喜びや葛藤、クライマックスの決意や別れに至るまで、ずっとのび太の感情や行動がお話の中心になっていたということです。
ドラえもん映画は「冒険に出かけた先でその世界の騒動に巻き込まれる」という形式が一番多いかと思います。しかしこの形式の場合、ゲストキャラの物語が中心となってしまい、のび太たちの存在が薄くなってしまうこともしばしば。
かと言って、毎回のび太の世界の危機につながるとか、5人のうちの誰かがさらわれるといった展開にもできないので、ゲストキャラとの友情を深め、「彼らを助けることがのび太たちの願いである」という形にすることで、「ドラえもん」の映画であることを成立させています。
その形式に特に不満は無い…のですが、最初から最後までのび太の感情で物語が動いていくような長編もたまに観たくなるところ。
しかし過去作でもそこまで彼が引っ張っていく話となると、「恐竜」と「巨人伝」くらいかもしれません。あと「魔界」と「新日本誕生」あたりを加えるかどうか?
その中で今回の「新恐竜」も、「恐竜」とは違う形でのび太の気持ちが物語を動かしていく作品になっています。
「これはのび太の人間性や感情がしっかり描かれていなければ、必然的に映画そのものが無茶苦茶になってしまう……!」と期待と不安がないまぜになった状態で上映に臨みましたが、個人的には杞憂に終わりました。
ああ、のび太がキューとミューを愛する気持ちが伝わってくる!
自分に重ねてしまう気持ちも分かる。自信を持ってほしい気持ちも分かる。どうか幸せに生きてほしいという願いが胸を打つ!!
そのために悩みながらも、まっすぐに行動できるのび太が本当にかっこいいなと感じられました。
野比のび太はどんな人間か? どんな子であってほしいか? そもそもあなたはのび太くんが好きか?
等々、人によって考える「のび太像」は違いますし、そのイメージ通りの姿を押し付けるのは正しくないとは承知しています。
しかし、それでも私の見たかった「のび太」がそこに居て、活躍していることが嬉しかったですし、ハラハラドキドキと、いつしか彼になりきったように感情移入していました。
クライマックスについても賛否ありますが、私はのび太なら「救いたい」と願うと信じているので、あの展開にも納得がいっています。
・のび太の願いが未来へとつながった!
のび太が恐竜たちを救おうとする行動が、次の時代・次の段階につながったというのは、ドラマ性重視であり、少々出来すぎた展開ではあるでしょう。それでも、「キューが幸せに生きていけるように」と願うのび太に移入して鑑賞していた自分としては本当に嬉しかったのです。
”のび太の行動を含めて実は歴史の一部だった”という真相はわりとウルトラCではありますし、仮に整合性を良しとしても倫理的にどうなのかという問題は生じます。
でも、今作の彼の気持ちもとても良くわかるんですよ。
最終的にT・Pに取り押さえられてしまうことになるとしても、今作ののび太は「のび太」である限り、きっと最後までキューたちのために何かできることはないかと、あがき続けると思います。
T・Pの言い分もわかる、でも、できるなら恐竜たちを救いたい。キューとミューは幸せに生き抜いてほしい。
大いなるフィクションなのは理解していますが、個人的にはそういう『理想とかまっすぐな願いが叶えられる物語』があっても良い。のび太の願いが希望に繋がって嬉しい、純粋に良かった、好きだと思える作品でした。
・他の4人がのび太の味方でいてくれた!
ドラは子守りロボットとしてのび太を導く存在ではある……けれど、彼には彼の感情があるし、親友としてのび太の想いを一番理解している存在でもある。
現代に恐竜の卵を孵して良いのかということや、同じ種族と一緒に居ればキューは飛べるようになるかもしれない(のび太と一緒に居る事がキューにとって良いことなのか?)等々、要所要所でのび太に言葉をかけていましたが、それはのび太のやることの否定ではなく、ましてやお説教でもなく、彼の気持ちを理解し、自分で考えることを促すものでした。
ドラはのび太がちゃんと考えて判断のできる人間だと信じているんですよね。
そのうえで彼の下した決断には惜しみなく力を貸してくれる……この信頼関係もまたグッとくるものでした。
ジャイアン、スネ夫に関しては今作は「のび太の恐竜」の時ほどのび太と対立している状況ではなかったため、早々に彼を認め、その願いに理解を示した上で、頼れる仲間として存在感を発揮してくれました。
ジャイアンやスネ夫なりに恐竜の強さや他の種族との調和について思うところがあった、という描写は小説版にしかなく、映画では省略されていたのは残念でしたが、削りながらも話の都合で動かされているという感じはしなかったです。
しずかについては主にあの川原のシーンがくすぐったい感じもしましたが、「上手くできない気持ちをよく分かってるからこそキューの苦しみにも寄り添ってあげられるはずだ」とのび太の背中を押す重要な役割を果たしていたと思います。
のび太にとってドラやしずかが信じてくれているように、キューには自分がついて信じてあげたいと心を固めるうえでも仲間たちの存在は大きいものでした。
そしてT・Pに捕らえられそうになったのび太を4人が守るシーンがアツい……!
こうした演出も苦手な人は苦手なのかもしれませんが、そうやって"無条件で味方になってくれる4人"を観れたことが嬉しいし、できればあの輪に加わりたいとさえ願ってしまいました。
・恐竜は悲しい存在ではなかった、キューとミューに出会えて良かった!
私は正直、恐竜が滅んだことで哺乳類・人類の繁栄があるということに、それが歴史だと納得しつつも、どこかやり切れない無常感のようなものを抱いていました。しかし今作を経たことで、それがもっと前向きで希望のあるものとして受け入れられるようになった気がします。
恐竜は絶滅して「終わった」おかげで今の人類が居るんじゃなくて、彼らはその時代を精一杯生きていたし、その生命が今に受け継がれているということ。のび太にとっても、映画を観ていた自分にとっても、キューとミューは生まれてきて良かったし、出会えてよかった。今回ふたりが「歴史に関わっている」というSF的ギミックはあったけれども、そこは本質ではないのだろうと感じています。
キューがのび太を助けたくて飛べるようになったり、のび太が朝ちゃんと自分で起きられるようになったり、約束を果たして逆上がりが出来るようになって、"世界がちょっと広がる"というその瞬間。
そういうことを何度も何億年も、歴史上の小さな誰かが、のび太が、キューが、「私」が繰り返して続けて生きてきて、その先に未来が広がるんだということが心に温かく感じられました。
このあたり、Mr.Childrenの主題歌「Birthday」の歌詞、そして光の玉のような形で生命が受け継がれていくことを表現したエンディング映像もすごく良かったと思います。
"のび太"が走り続けたその先でドラえもんに会えるという最後の演出は、何度見ても胸がいっぱいになりました……!
・誰かのために「他にできること」を考えることで、未来が開けるという展開が嬉しかった
これは私がそういう話が好きなだけなのですが、それでもぜひ語らせてください。
まずジルさんが「人間は他人を思いやる心を進化させたのかもしれない」と、ややポエミーなことを言っていたのを独自に補足しますと、あれは「ただ一つの自分にとって有利な道」ではなくて、自分以外の存在のために「他にできることは無いか?」と探す気持ち、模索する知恵、そういうことを「思いやり」として発達させてきたのだと言いたかったのではないかと考えています。
自分だけが良ければ良いのではなくて、自分以外の存在も幸せになってほしいと願い、そのために行動できるということ。
それはまさに、のび太たちが体現してみせたことです。
「宝島」しかり、「新日本誕生」や「雲の王国」等、不穏な未来が提示される作品もいくつかありましたが、そのルートを座して受け入れるのではなく、皆の幸せのために違う道を目指していくことに希望があると、「ドラえもん」という作品にはそういう未来観があると私は考えているので、今回のこの展開にはほぼ絶賛に近いものがあります。
そもそもドラえもんとはどういう存在なのか、
親が居ないあいだ子どもが無事なら良いというだけの「道具」であったなら、あの世界の子守りロボットはドラえもんのように喜怒哀楽+アルファの豊かすぎる感情を持つ存在として作られていないことでしょう。
世話をする子が幸せになれるように、一緒にいろんな出来事を経験しながら楽しく過ごせる存在として作られているということに、未来でドラえもんを生み出した人類は「思いやり」を持ち続けているのだと信じることができます。
今回は本来既に決まっているはずの過去について、『歴史にはまだ分かっていない部分が多い(ミッシングリンク)』というワードで潜り込んでいますし、かなり強引な手法だというのは承知していますが……それでも「キューたちのために少しでもできることを!」とのび太が動いたことが未来につながった、希望となったことは本当に嬉しく、ワクワクする展開でした。
ぶっちゃけ”浪漫要素”ではある、だがそういうのも良いじゃないか!?
毎年いろんなタイプのドラ映画が公開される中で、これが今年の作品に対して私のなかで残ったものですし、細かいアラはあっても好きだなと思える理由でした。
◇
~問題点はこう解釈したよ、気になるか気にならないかはその人次第!?~
ここからは純粋な「感想」とは違うかもしれませんが、映画を観た人から「問題」とされてる点について、自分はこう解釈したよーというのを述べていきたいと思います。それぞれへの反論のようになっていますが、あくまで「こう考えた人間もいるよ」ということなので、どうか怒らないでくださいね。
・キューが飛べるようになることを強要し、それを良しとする根性論はどうなのか?
これに関してはキューは飛べるようになりたいと願っていたし、のび太はキューが飛べるようになると信じていた、そして一緒に頑張ると約束した、という流れなので私は特に強要とか根性主義とは感じませんでした。
まず一番の前提としてあるのが、
「のび太はキューに幸せに生きてほしかった」ということ。
だからたった二匹のペットとして現代に飼うことではなく、同じ種族が生きる時代と場所に帰そうとしたわけです。
しかしあの島の環境で暮らし、群れに受け入れてもらうためには、飛べなくてはならないのは客観的「事実」。キューが「幸せに生きる」ためにはあの場所に置いてくれば良いという訳にはいかないでしょう。
鳥かごのように自分の手の行き届く環境では無い以上、「できなくても良いよ」とは言えないはずです。
もちろんフィクションとして、走るとか泳ぐとか、「飛ぶ」以外のことで生きていけるようになった!という夢のある展開にすることも可能ではあったかもしれませんが、今回のこの映画ではのび太とキュー、"ふたりの気持ち"に基づいて「飛べるようになりたい」「飛べるようになると信じる」「ふたりで頑張る」という物語に行きついたのではないかと考えています。
実はこのあたりは小説版ではもう少し細かく描写していて、のび太はキューが自分に重なって感じられるからこそ、できない孤独感や怖さもわかるのに、つい苛立ちをぶつけてしまったことを反省していました。
そして「みんなと同じになりたいんじゃなくて、できなかったことをできるようになりたいんだ」と気がついて、キューを応援するとともに、自分も逆上がりができるようになるよという約束をしています。
一方的に「飛べることが良い」という価値観を押し付けていた訳ではなくて、できないことをできるようになって自信を持ってほしい気持ち、自分が味方になって応援するということ、そして一緒に挑戦をするということを合わせて示していて、キューとのび太、ふたりの気持ちは通じ合っていたということが、より分かりやすくなっていました。
(※小説とアニメの媒体の違いや、どの程度観客・読者に委ねるかという判断の違いでもあるので、どちらが良い悪いとはしません)
もちろん「"頑張ってできるようになれ!"みたいな根性的な話は嫌いだ~!」というそれぞれの好みや主義というのはあると思うので、そのあたりが合わない人も出るのは仕方ないことかと思います。
とりあえず私個人は、作中のふたりは変わることを望んだ上での挑戦だったから、問題とは思わずに受け取ったよーということです。
補足として、キュー自身が飛べるようになることを望んでいたのは、離れていたのび太が戻ってきたときにひとりで練習を続けていたことからもわかりますし、スパルタ特訓のような描写も、そもそも原作てんコミ1巻のウマタケのお話で「人にできてきみにできないことなんてあるか」とドラがのび太に竹馬をやらせていたりするので、そんなに気にすることでもないんじゃないかなぁと考えています。
・のび太は頑張ることをそこまで肯定するような性格だったか?
これも前の項目に関連した話ですが、「のび太もたまには考える」「あの日あの時あのダルマ」等々のエピソードや、F先生へのインタビューなどからも、彼は「出来ないよりは出来た方が良いと知っている」「一歩でも半歩でも前進したいという気持ちは持ち続けている」キャラクターだと思っているので、特に違和感は感じませんでした。
もちろん「映画(大長編)だとカッコよくなる」というメタ要素も加味されますが、普段の怠け心や劣等感の下には確かに向上心や前に進む強さを持ち合わせていると信じています。
今作はそんな彼の良さがたくさん見れたので、のび太好きとしても嬉しい作品でした。
・今井監督や脚本の川村さんはインタビューで「多様性がテーマ」と語っているが、結局飛べることに帰着する話になっていて矛盾していないか?
これは捉え方の違いではないかな?と思っています。
まず本人たちの目指すところがみんなと同じになることではなくて「できないことができるようになりたい」のだというのは前項で述べた通り。
それでも結局多数派に迎合しているのではないか?という疑問についてですが、そもそもキューはミューたち他の仲間と「同じ」にはなってない…ですよね。
滑空する飛び方は出来ていないし、体が大きくなったりもしていません。
元の身体のままで同様(か、それ以上)の結果が出せる羽ばたきする飛び方を身に付け、それによってあの島の環境で生きていける能力と、あの群れで認められる能力を得られたということなのでしょう。
極端な話、群れのリーダーがまだ「お前の羽ばたきする飛び方は無様だから仲間には入れん!」とパンチをかましていたら、キューはあの中で生きていくことはできなかったかもしれません。
このあたり、腕をバタバタと動かして飛翔するということと、グライダーのように滑空することで、どちらも「飛べる」という事象が同じなので分かりにくくなっているんじゃないかなと考えました。
前述のとおり早く走れるとか泳ぐとか、もっと明らかに違う事象で生き延びていく話にするという手もあったかもしれませんが、今回の映画は恐竜は鳥類として受け継がれていくという学説、そして仲間の中で受け入れられて幸せに生きてほしいというのび太の願いに沿っているため、ああいった展開になったのでしょう。
監督たちの意図した「多様性」については、雑誌「ニュータイプ」2020年4月号で「『人と人との違いをプラスに考えよう』ということを物語に組み込んだ」と今井監督がインタビューに答えているあたりも、あわせて参考になるかと思います。(ニュータイプの電子版が無いのが残念!!)
ただしそういった意図とは別に、「生物多様性という用語上の"多様性"と、人間社会で言うような"多様性"を同じように使っていてワケわからないよ!ゴッチャにするな~!」という意見については、確かにその通りなのですが……
のび太にとってキューが自分と重なる存在として描かれている文脈からして、人間と同じような意味合いで願望や希望として使われているのは読み取れますし、そこらへんは言葉に厳格にするよりも、伝えたかった内容を感じ取ることで私は許容しています。
また「そもそも動物を人間と同じ感情で擬人化するな」という話にまでなってしまうと、それはOKな人とそうでない人がいるのでごめんなさい、と言うしかないかな…と考えます。
・一個体の技能獲得は進化じゃないよ?(遺伝しないよ)
これに関してはひとえにジルさんが悪いというか…… 兄ちゃん、気持ちはわかるがテンション上げ過ぎだポエム自重しろ落ち着け落ち着け、と言いたい気持ちです。
あの人がかなりユカイな人なので話をややこしくしているのですが、キューが飛べるようになったことを「進化の瞬間だ!」と言ってるのはあくまでその第一歩、今後あの種族に起こっていく変化の「象徴的な事象」として描いているのだろうなと解釈しています。
ジルは興奮してちょっと(だいぶ?)仰々しく語っているけど、キュー一匹が飛べるようになったからと言って「はい!今飛べた!今進化した!」みたいな感じではないのは十分理解できました。
また、作中で登場しなかっただけで、生まれつき特に小柄だったりパタパタと羽ばたくような動作をする個体はキュー以外にも居たのかもしれません。
ただ、「鳥類の祖先は既に(他に)存在していたことにも触れていないし、子どもが進化というものを誤解する可能性がある」と言われると……その可能性は否定できないので確かに難点ではあるのだと思います。
原作の「のび太の恐竜」で首長竜を恐竜として扱っていることなどと同様に、分かりにくい点については大人がアドバイスできれば良いのではないでしょうか。
・進化は努力によるものじゃないし、進化は進歩じゃないよ?
この作品ではキューが飛べるようになったことについて、ドラマ性を出すために「ぴったりこのタイミングで」、「のび太を助けようと頑張ったことによって」、「未来が切り開かれた」と、描写しており、象徴的な表現であることを踏まえても、指摘通りで学問的には適切ではありません。
こういうところが気になって楽しめない、受け入れられないという人が出てしまうこと自体は仕方がないかなと思えます。
けれども個人的には"エモさ"の演出だと分かっていても、キューが生魚を食べられるようになっていたりとか、一人でも練習していたこととか、転んでも転んでも…ダルマのようにもう一度起き上がってのび太を助けに行こうとした場面など、もう一人ののび太としてふたりが重なって見え、力を合わせてチョークを引く姿に胸が熱くなりました。変わろうとすること、変われたことで「新しい世界が広がる」というメッセージにも心打たれます。
結局はじめの方でも述べたように、正しくないことが許せない気持ちと、ドラマ性の方に惹かれる気持ち、そのどちらがその人の中で強いかという話に行き着いてしまうんだろうなあと考えます。もちろん、誰もが疑問や引っかかりを持たず、かつ盛り上がるような映画であれば一番なのですが……
とりあえず自分としては、強引であることを承知した上でもやっぱり心動かされる作品だったなという評価です。
・小さなきっかけが歴史を大きく変えうるというSFネタと、科学的に進化がどう起こるかという話のかみ合わせの悪さ
これはこの映画に関しての議論を複雑にしている原因と思われる点で、キューが飛べるようになるのがなぜあのように劇的な演出になっていたか、もう一つの理由として考えられるものです。
今作でジルが使っていた「チェックカード」は、元々は同じ藤子・F・不二雄先生による作品「T・Pぼん」(タイムパトロールぼん)に登場するアイテムで、その引用の仕方からもあの作品の「些細な事象から歴史が大きく変わることがある」という設定・概念が同じように適用されているのだろうと思われます。
極端な例だと「小石一個が回りまわって第三次世界大戦を阻止する」というアレですね。
それ自体は問題ではなくて、むしろ個人のちょっとした行動が世界を変えるというギミックにものすごくワクワクさせられるのですが、本作のキューやのび太にあてはめると、SF的なネタと科学的な事実との間に混線が発生しやすくなっていると感じました。
つまり、「崖や滝、上昇気流など極端な環境を持つ島にたどり着いた小型の羽毛恐竜」という、変化の起こりやすい条件がちゃんと描かれていた一方で、「のび太とキューが出会って変われたことで歴史が大きく動いたのだ」というSFロマンの要素をエモーショナルに演出してしまったので、科学的に無理があるフィクションの部分がかえって目立ってしまったのではないかなということです。のび太が落ちそうになる「あの土壇場でそんなにうまくいくか!?」という展開そのものについても同様ですね。
「進化」の扱いについて釈然とせず引っかかった人が多かったのは、このためではないでしょうか。
こういうきわどいところを攻めていかないで、もうちょっと自然な範囲でロマン要素が出せれば一番良かったのかもしれません……が、
私個人としては「小さな勇気や願いで大きく世界が変わる」というドラマがすごく好きなので、構成上の問題はあってもこれはこれで良かったかな…と受け止めています。
・のび太がキューを救おうとして世界を滅ぼしかけたことは倫理的にどうなの?
これも難しい問題なのですが、あの状況に居たのが自分だったとしても、「ごめんね、キュー、ミュー、他の恐竜のみんな。僕たちは何もできないので帰るよ」とは言えないよなあ……という感情的な問題が先走ります。
そもそもあの映画は「歴史を変えて人類が滅んだ」わけじゃないんですよね。
実際に「21世紀に戻ったら世界が崩壊していました」エンドだったら、私もさすがに「ちょ、待てよ」となりますが。
もし「キューとのび太が歴史に関わる」というトリックじゃなかったとしたら、のび太たちは最終的にはT・Pに取り押さえられて強制的に元の時代に送還だったと思います。その瞬間まで全力で抵抗しまくった上で。のび太は何日か…ひょっとしたら半年くらい学校にも行けないくらい塞ぎ込むかもしれませんが。
ここで誤解しないで頂きたいのですが「そんな悲しい映画観たくないでしょ? だから我慢しろ」という話ではありません。
少なくとも「この映画ののび太」は、人類のその後とかそういうのを考えられないくらいキューや恐竜たちがみんな死んでしまうことに抗いたかった、そういう人物として描かれているということです。
だから、観客から見て、倫理観が欠けてようが、エゴの塊だろうが、なんなら根性論者でも良いのです。今作ののび太はそういう信念のもとに動く人物なのですから。
その上で、「自分は今回ののび太が好きじゃない」ならそれはそれで良いかと思います。
とりあえず「この映画ののび太はそういう行動をとる人物である」ということと、作品としての完成度とかスタンスはまた別であることを認識する必要はあるんじゃないかなと考えました。
そうしましたら、あとはやっぱり個々人の好き嫌いのお話。
私は自分とのび太の考えが近かったですし、自分が(勝手に)イメージするのび太の行動に合致していたので、胸が詰まるような展開ではありましたが「そうなるよね…」と納得しています。
さらに、キューたちが生き延びることが歴史上必要だったという種明かしがあり、しかも「のび太がなにか他にできることを諦めなかったから開けた道だ」というメッセージもあったので、大いなるフィクションと承知していても「良かったぁ」と涙ぐみそうになってしまいました。
キューを想う気持ちや強さ優しさなど、のび太の人物像が「この映画の中」ではブレずに一貫していたのも良かったと思います。
・エモに振ったおかげでタイムパラドックスがガバガバじゃない?
これに関しては確かにガバっていますし苦しいところも多いですし、コジツケールです。
でも、苦しくてもなんとか「つじつまを合わせよう」としてくれたことは評価しています。その私の評価とか許容ラインもガバガバだという自覚はありますが……
それはさておき、ドラマ性を重視するということは「そういう話ありき」で逆算されているので、やはり展開が強引な部分が出てきてしまうのは否めません。しかしこの作品はできるだけフォローする要素や「こういうことかなあ」と妄想できる材料も用意されていると感じました。
例えば「のび太たちの行動は実は歴史に折り込み済みなのだ!」という真相については、冒頭で恐竜博士が「歴史上存在するはずなのにまだ見つかっていない"ミッシングリンク"がある」と語っている部分が伏線になっています。
そのセリフで済ますのは確かにちょっと強引なのですが、恐竜については「見つかっていないしまだよく分かっていないことも多い」いう現実の研究状況が、今回の物語にある種の"嘘"を潜り込ませる要素として機能していました。
また、「ジオラマセットが恐竜が生き残る場所になる」という展開についても、ジュラ紀で落としてくるという前段階のほか、「未来の動物育成セットだから環境調節機能がある」「のび太達が遊具を設置した特殊な環境だから飛行恐竜が適応した」等々一応のつじつま合わせとなる説明が用意されています。
「あんな場所が白亜紀にあって、その後の歴史に悪影響無いの?」という疑問についても、T・Pが一部始終を見ていたということで、大陸との距離の微調整とか、オーパーツにならないような最終的な処分をしたんじゃないかなあ……と妄想してみました。ジルさんみたいな研究職のT・Pも居るという設定ですし。
もちろん、のび太の願いとは裏腹に一世代限りで滅んでしまった種族も多いのだろうなと思われます。
そのあたりは、「おいおい、妄想かよ?」という話なんですが、ハッキリ説明しないからこそ色々想像して楽しめるという気もするのですよね。あとはぶっちゃけ「矛盾や論理破綻を避けるため」という、一種の逃げもあると思います。
こういうところは「宝島」にも多々あったので、「やっぱりこの脚本ズルいな~苦手だ」となる人が出てしまうのも分かるのですが(ごめんなさい)、個人的には「多少苦しくても卑怯でも一応つじつま合わせを考えてくれる、その姿勢は嫌いじゃないぜ!」と思っています。
他のドラ映画には「アレの正体とかあの演出とか意味ありげだったのに削っていて、なんか宙に浮いてるなあ……」みたいなものを感じることがあるので、「それっぽい理由」を仕立ててくれることには好感を持ちました。
もちろん私がモヤモヤしたというそちらの作品が好きな人も当然いらっしゃるので、逆から見れば同じこと、やっぱり映画の感想というのは「好きな人も居れば嫌いな人も居る」に行き着くのだと考えます。
「私これ嫌い!みんなも嫌って当然!」みたいなギスギスした雰囲気はいやーよ?
なお余談ですが、小説版にはジオラマが島ほどの巨大サイズになっていたことについて「本体サイズ調整機能の調子が悪い」という伏線が出てくるのですが、それだと時間経過で小さくなったり壊れる可能性もあるため、映画版では削られたものと思われます(推測)。こういうところも色々取捨選択して作られているんだなと感じました。
・"ピー助"について
アリかナシか、許せるか許せないか、ある意味でもっとも物議を醸す点。
以下、許せるしアリだという立場で、付随する疑問について妄想の翼をはためかせて考えてみました。
【「のび太の恐竜」のその後の話なの?パラレルワールドなの?】
のび太の記憶がどうなっているかを理由づけられれば、どちらに受け取ることも可能ではないでしょうか。そもそも毎年毎年大長編(映画)でずっと小学生のまま大冒険していること自体、時空がねじれているので……
仮にパラレルワールドの出来事だったとしても、それが「無かったこと」ではなくのび太の心とか魂に残るものであるというのは、「魔界大冒険」を思い出せば納得がいきます。
【のび太たちの記憶は有るのか無いのか】
育児シーンなどを見る限りとりあえずは「無い」寄りの表現でしたが、こじつけや妄想も一応できるかなと思います。
映画で観れる部分以外の幕間にもキャラクターたちは生活をしているはずですので、そこに"彼"についての会話もあったのかも……? 溺れかけたときののび太の様子も、過去を思い出している風でもあり、別世界の記憶が混ざったようでもあり、これまたうまい逃げ方というか、妄想の余地を残してるなあと感じます。
フォゲッター技術の応用など、T・Pに記憶を消されてるという説も面白いでしょうか? 未来にはメモリーディスクのような危ない道具もあったりするので、やってやれないことはないかもしれません。
なお、むぎわら先生によるコミック版では明確に「ピー助との物語のその後」として描かれています。
【あの個体は"本人"か?】
前述の理由のほかに、時代が合わない気もするので個人的には別人寄りに捉えていますが、やはり完全に否定することはできないかと思います。
ほら、「新日本誕生」でククルが運ばれてきた時空乱流とかあったですし? そのあたりでひとつ前日譚を創作してはいかがでしょうか(丸投げ)。
【何で助けてくれたの?】
のび太とキューがその後の歴史に関わるという設定から行くと、流れを外れそうになった時に元に戻す力が備わってるとする「歴史の復元力」によって、近くに居た首長竜が助けてくれた……とするとSFっぽくまとまるでしょうか。
もちろん、"本人"だから助けてくれたというのも嬉しいですし、実は子孫でご先祖の遺伝子に導かれた行動だったとか、一般通過竜のただの気まぐれだったとか、のびちゃんの精神感応力(最初にウミユリの化石に触ったときや開拓史でロップルくんの夢をみた時のアレ)に導かれてやってきたなんて説も面白いかもしれません。
だいぶ開き直って参りましたがそんな感じで、
長く観ているファンに対するサービスというメタ要素もありつつ、彼の存在については科学的な整合性よりも、ロマンある解釈(妄想)で認めたいなあと思っています。
・ミューって必要だった? 双子である意味は?
キューと比較のためのキャラになっていただけだという意見も見かけたのですが、それがまさに意味でありますし、何よりミュー可愛いだろ!ミュー可愛いだろ!ミュー可愛いだろ!
たまご探検隊を食べちゃダメだと言われて名残惜しそうにしている表情がたまらないですし、キューのために飛び掛かろうとする男前(?)なところとか、のび太の枕を引っ張っているところとか、とにかく仕草がすべて愛らしくて最高です。
・あの巨大な翼竜は何だったの?
これに関してはほとんど説明もなく確かに謎のままだったので、妄想で補うしかありません。
あいつはのび太やミューとは別のベクトルで、”キューと対になる存在”だったんじゃないかなあと考えています。
小柄で好き嫌いが多くて滑空が出来ない変な羽毛恐竜(キュー)に対して、巨大であたりの動物を食らいつくす規格外な翼竜。もしかしたら逃げていたプテラノドンの変異体の可能性もあるかもしれませんが、少なくとも仲間はいないし入れないのでしょう……
ジャイアンたちが目撃した海岸近くの骨だらけの一帯があいつによるものだとすれば、その体を維持するために必要な食料も膨大なはずです。周囲の生態系バランスを大きく乱す存在でもあるため、戦いの強さとは別に、長く生き延びていくことは不可能だったと思われます。
そもそもなんであんな馬鹿でっかい翼竜が居るのか?ということについても、前述のように「まだ見つかっていない存在(ミッシングリンク)」だと言ってしまえば、この作中では(フィクションとして)存在させることが可能なのです。
つまり、要素を一つ一つ改めて考えると、キューと対照的になっているのですよね。
これはもちろん私の妄想なのですが、わりといい線いってるんじゃないかなとうぬぼれています。
なので、翼竜を絶対的な悪や倒すべき存在として描かなかったのは良かったのですが、エンディング後にどうなったかが気になるところ……
スモールライトだといずれ戻っちゃうよなあ。これもT・Pがなんとかしたのかな?
キューと対になる存在であれば、彼にも救いが欲しかったなと想う反面、「救われない」のもまたキューのもう一つの姿、つまりのび太に出会えずミューも居なかった場合の"キュー"だと考えることもできると気が付いてしまいました。
本当に構成が見事だなとうならされるばかりですが、それはそれとしてかわいそうでもあるので、ぜひどなたかもうちょっと優しい"妄想"をしてあげてください(丸投げ2)。
・いなごの缶詰
ゴメンなさい、これは本当にわからなかった。
てんコミ2巻の「恐竜ハンター」の「大和煮」の缶詰のパロディなのはわかるのですが……
「『飛べる』けど美味しく人間に食べられてしまう生物」というメタファー?
実はドラえもんは「21世紀でいなごの缶詰を仕入れて22世紀で高く売る転売ヤー」だったとか?(オイ)
今井監督とか川村さんの出身地が長野という訳でもないようですし……
真相を直撃するインタビューぷりーず!
もしくは、コレだ!となるオモシロ妄想解釈も待ってます(丸投げ3)。
◇
と、いうことで長かったこの文章もついに締めに入りますよ。
まとめとしては今回の「新恐竜」はのび太の物語です。
彼の願い、彼の想いによって話が動いていきます。
強い想いは物語に大きな勢いと感動をもたらしますが、同時に一方的なエゴとして受け入れられないものになる可能性があります。
まずこれが好きか嫌いかどうか。
そして恐竜を扱いながら、「のび太の恐竜」(2006含む)とは違う展開を前提としていること、さらに宇宙や異世界ではなく現実の地球を舞台としているため、時系列や史実に従った作品にする必要があります。その一方で娯楽映画としてのドラマチックな展開も求められるため、両者をすり合わせるためにやや強引な展開があったり、科学的には正確ではないところが生じています。これが許せるか(気にならないか)許せないかがもうひとつの軸になるでしょうか。
何度も述べてきましたが、それらの組み合わせや程度で、この映画が好きだという気持ちが残るか、嫌いだ・許せないという気持ちが残るかで感想が分かれてくるのだと思います。
今年は少々極端に「とにかく全部ダメだ!」となってしまった人も居ましたが、本来「あれは大好きだけどコレは納得いかない」とか「アレは苦手だけどここはめっちゃ燃えた!」など、場面ごとに感想が分かれてくるものではないでしょうか……
なので「なんか評判が悪そうだから観るのはやめとく」という人が出てしまっていることが、個人的にはものすごく寂しいです。
もちろん観るのも観ないのも自由!なのですが、評判を含めて少しでも気になる部分があればぜひご覧いただけたら嬉しいなあと。賛否や好き嫌いが出てしまっている点についてもご自身の心で感じて頂ければと願います。(感染症予防の観点から無理しない範囲で!)
正直なところ、今作についてはあまりに多く「嫌い」だという意見を見かけるので自分の感性が間違っているのではないかと自信をなくした時期もありました。しかしこの文章で綴ってきたように、ひとつひとつの要素について自分なりに考えた結果、気になる部分より心動かされた気持ちの方が大きかったという結論に至りました。
と同時に、嫌いになったり引っかかる人も出そうな要素が多い作品だということもよく理解出来ます。
なので、イマイチだと感じる方がいらっしゃるのもわかるのですが、皆がその意見だという前提になって、この作品が好きだと言いにくい雰囲気になっているのもなんだか違うなあと感じ、改めて「好きだし気にならなかった」という立場からも感想を公開したいと考えた次第です。
いや、そんなの気にするなよアンタの感想だろという話なのですが……うう、なんだか今年は異様に肩身が狭いんだ!
この作品が良かったという人とダメだという人でギスギスしている状況も辛いので、両方の立場があると認めたうえで、もうちょっと具体的な感想が出しやすくなればなあと願います。作画や音楽の話やそれぞれの燃え(萌え)ポイント、妄想劇場や道具考察なんかも聞きたいぞ!
タケコプターがブォンブォンしてた演出とかも好きなんですよ~
あとは、とにかく毎年公開してくれるドラえもん映画を楽しみたいよね!ということです。
その年によって、文句を言ったり感動したり人それぞれ色々あるけれど、それを繰り返すのもまたドラえもんファンの恒例行事。
すごくお気に入りのキャラクターができたり、いろいろ考察したり、イラストを見たり感想を読んだり、コミカライズや小説と比べてみたり、コラボ商品を集めたり記念イベントに出かけたり、何回か劇場に通って新しいことに気がつくのも、あれこれあれこれ、毎回楽しくて幸せだし今年も「出来る範囲」で楽しむ!
改めてこういう想いが毎年できる作品というのは、何てすごいのだろうと感じます。
製作スタッフの皆さんはもちろん、スポンサー各社、タイアップ商品やイベント等々、この映画の公開に携わった全ての人に感謝を伝えたいです。
こういう時勢だから本当に本当に嬉しい。
そしていろいろ難しいところもありますが、子どもたちが何らかの形で楽しんでくれれば良いなあ、と願ってやみません。
来年の公開時期はまだどうなるか分かりませんが、次の映画も楽しみです。
あの音楽とあの惑星、やっぱアレですかね!?
今作では太古の昔から現在、そして未来へ受け継がれている生命が描かれていたように、
どうか、いろんなものが次へ、未来へ、より良い方向へつながっていけばよいなと考えます。
ミューとかたまご探検隊とか恐竜博士とかのびちゃんのカッコよさとか、もうちょっと具体的に語りたい気持ちもあったのですが、いつか機会があればということで、ここで締めといたします。
ここまで凄まじい長文でしたがお読み頂きありがとうございました。
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